ここでは、「マウスは人間ではない」にも関わらず、なぜ研究機関ではマウスを実験で用い続けるのかについて6つの研究をもとに紹介します。
研究機関では日々「マウス」や「ラット」などのネズミ(げっ歯類)で、私たちに起こり得る健康問題についての数多くの研究が行われています。
特にマウスは、小さくて世話をするのが簡単なので、人体実験ができないケースでは人間の代わりによく役立てられているようです。
しかし、ネズミは人間ではありません。
同様に、モルモットやウサギといった他の動物もまた医学分野の研究で用いられていますが、彼らはあくまでモデル生物であって、常に私たちと同じように薬物に反応するとは限りません。
そのため、研究者らは、マウスで特定の症状に近いモデルを作り出して医学分野の研究を驚くほど進歩させてきた一方で、以下のように彼らと人間とのカラダの構造の違いから誤った結果を導きだしてしまうこともあるようです。
アルツハイマー病の研究で分かった「マウスと人間の脳は、細胞レベルで大きく異なる可能性」
アルツハイマー病患者の脳では、アミロイドベータとして知られるタンパク質が異常に高いレベルで凝集して蓄積します。
これらの塊(かたまり)は、脳でニューロンの間にプラークと呼ばれる異常な組織を形成し、細胞機能を破壊すると考えられています。
実のところ、科学者らは、このアルツハイマー病に関するマウスモデルを作るのにとても苦労しました。
これについて、科学者らが「なんとか突破口が開かれた」と思ったのは1995年のことで、それは、人間には珍しく40代をはじめとする早い時期に症状を発症する遺伝型のアルツハイマー病についての研究でした。
研究者らは、その病気の形態に関連した単一の遺伝子変異体を持つようにマウスモデルを遺伝子操作することに成功したのです。
これと同様の(トランスジェニック)マウスモデルは、それから10年間におよぶ実験で、脳にプラークを蓄積し、アルツハイマー病に関する重要な見通しを提供します。
なかでも特筆すべきは、アルツハイマー病の特徴ともいえるアミロイドベータのプラークを標的とした薬の開発分野でした。
「アデュカヌマブ」と呼ばれる抗体が、これらのアルツハイマー病のマウス患者への高い効果を生み出したのです。研究者らのなかには、それを「聖杯」とさえ呼ぶものもいました。
しかし、残念ながら、この薬は臨床試験中にヒトに対してはうまく作用しませんでした。
「なぜヒトでは薬の効果が得られなかったのか」は明らかになりませんでしたが、一つの理由は、私たちの脳が細胞レベルで想像以上にねずみと異なるためだと指摘されています。
げっ歯類の脳は、脳が変化しても、それが必ずしも人間の脳のように行動に影響を与えるとは限らないからです。
実験結果が薬の開発にうまくつながらなかったケースは他にもあり、多発性硬化症(MS)と呼ばれる中枢神経系の障害もその一つです。
多発性硬化症(MS)の研究で分かった「マウスと人間の免疫システムの違い」
多発性硬化症(MS)とは、免疫系が、神経線維を取り囲んで保護しているミエリン鞘を攻撃するために、脳の情報がうまく伝わらなくなるという病気です。
脳と体の他の部位との間の通信信号が妨害された結果、運動、視覚、感覚、認知、および、発話の問題を含む多種多様な症状が引き起こされます。
このような症状を引き起こしている患者は、自己免疫疾患である可能性が高いため、科学者は、人体の異常な免疫反応を妨げる治療法に注目して研究を行いました。
80年代の科学者がIFN-γ(インターフェロンガンマ)と呼ばれる免疫系の防御の活性化に関与するタンパク質に興味を持ったのはそのためです。
このIFN-yもアルツハイマー病と同様に、マウスで多くの可能性を示したため、ヒトでの臨床試験段階に移されました。
しかし、私たち人間の免疫システムは、マウスの免疫システムとは重要な点で異なっていることが判明し、残念ながら、薬は患者のMSを悪化させる結果につながってしまいました。
科学者は後に、「MSのマウスモデルは、症状においては人間のMSに似ていますが、細胞内で実際に機能する方法は大きく異なる」ことを認識する結果となったのです。
病気を研究するために人間の代用として用いられる他のマウスも同様に、彼らはときには、研究のために人間と類似した機能や行動をもつモデルとしては最善のものだと考えられてきました。
しかし、常に人間とまったく同じ脳や身体の症状をマウスで再現できるとは限らないと指摘する科学者もいます。
MSの実験においては、マウスが実際に持っているのは、実験的自己免疫性脳脊髄炎(じっけんてきじこめんえきせいのうせきずいえん)、または、EAEと呼ばれるもので、EAEマウスは、たしかに彼らはMSについて多くの洞察を提供してきましたが、人間のMSには動物実験モデルでは起こらない特定の段階があることも分かってきました。
現在にいたるまで、MSの免疫疾患メカニズムと潜在的な治療法の研究に最も広く使用されているのは、この80年代と同じマウスモデルです。しかし、ヒトMSとマウスモデルの相違点を注意深く認識する必要が求められています。
感染症のマウスモデルの研究で分かった「人間特有のタンパク質の存在」
特に若い患者で慢性化しやすいといわれる肝臓のウイルス性肝炎に「B型肝炎」があります。
B型肝炎は、肝硬変や肝臓癌などの深刻な合併症を引き起こす可能性がある感染症で、長年、この薬の開発には動物モデルを用いた実験が行われてきました。
なかでも有力視されたのが「フィアルリジン」と呼ばれる薬で、これは、ウイルスのDNAに組み込まれてウイルスの増殖能力をブロックし、B型肝炎のマウスモデルだけでなく、ラット、イヌ、サルでも多くの可能性を示しました。
マウス実験での結果が薬の開発に適さなかった理由
動物モデルでの実験中、科学者たちは薬のメカニズムが、ウイルスのDNAに働きかけるだけでなく、エネルギーを生成するために細胞が使用する「ミトコンドリアのDNA」にも影響を与える可能性があることを知っていました。
しかし、実験では、4つの哺乳類モデルのいずれでも問題が生じなかったため、1993年にヒトでも臨床試験が行われました。
しかし、研究者らが驚いたのは、試験に登録した15人のうち7人が肝不全を発症し、そのうち5人が死亡したという悲劇です。
人間の肝細胞には、フィアルリジンなどの薬物がミトコンドリアに入るのを助ける特有のタンパク質があり、他の哺乳類では問題がなくても、人間には有害となってしまったのです。
当初、科学者らは、フィアルリジンが動物モデルのミトコンドリアには到達できなかったため、ヒトではそうなる可能性が低いと考えていました。
しかし、研究がすすむにつれて、人間特有のタンパク質は、薬の作用に影響を与えて、B型肝炎につながる突破口を開くことが分かりました。
マウスと人間の免疫応答の相違点
結核は、結核菌と呼ばれる細菌によって、肺に重度の感染症が引き起こされるうえ、この細菌は、治療に使用される薬剤に対する耐性に非常に優れているため、患者には、抗生物質を適切に服用することが求められます。
実のところ、結核菌とその近縁種は、人間以外の霊長類、ゾウ、モルモット、鳥、海洋哺乳類など、あらゆる種の動物に対して非常に優れた感染能力をもつため、今までに、モルモットの空気感染やウサギの肺上部で起こる特定の結核の研究など、さまざまな動物実験から、結核についての貴重な洞察が得られています。
しかし、マウスは研究対象としては機能しませんでした。
なぜなら、マウスを含む一部の脊椎動物は、バクテリアが産生する毒素に対して人間よりも最大10万倍も耐性があるからです。
ヒトとマウスの免疫系における、感染や炎症への反応の仕方の違いが障壁となったのです。
両者には、免疫応答において多くの類似したプロセスや物質がありますが、それらの各部分が全体として機能する方法が、大きく異なることに関係があると科学者らは考えています。
そのため、特定の感染症を研究するためにマウスモデルを使用する科学者らは、結果を解釈する際に慎重になっているようです。
人間にはなくてもマウスには有害に働く物質もある
ときには、マウスを用いた研究で分かった食品や環境物質への問題点が、実際に人間に適用されることもあります。
私たちが暴露、または、摂取している特定の物質の安全性に関する研究においては、市場から物質を排除されることもあり、その代表的なのが1970年代の「サッカリン」と呼ばれる人工甘味料についての研究です。
この人工甘味料を与えられたラットが膀胱癌になったことは、多くの人に衝撃を与えました。
この研究は、ヒトではなくラットで行われたにもかかわらず、サッカリンをはじめとする人工甘味料を使用した男性は、膀胱がんを発症する可能性が60%高いとニュース記事などで報告されたのです。
これを受けて、カナダはサッカリンを直ちに禁止しました。
しかし、研究が進むにつれて、ラットは、サッカリンを人間とは異なる方法で処理することが分かってきました。
ラットの場合、大量にサッカリンを消費すると、尿中に結晶を形成し、それが膀胱細胞を傷つけて腫瘍形成を誘発します。
加えて、これらのラットは、飲料水に命にかかわる量のサッカリンを混ぜたものを毎日与えられました。それについては、人間がこれまでに摂取した以上のものだという指摘もあります。
実のところ、1998年に発表された研究で、人間に定められたサッカリンの一日の許容摂取量の5倍から10倍に相当する量をサルに与えても、ラットと同じような問題は見つかっていません。
サッカリンやその他のノンカロリー甘味料を消費している人間について調査した研究でも、性別に関わらず、膀胱癌の高い発生率を見つけることはできませんでした。
結果的に、米国国立環境衛生科学研究所は、2000年に既知のヒト発がん物質のリストからサッカリンを除去しました。
それに続き、その16年後にカナダ政府も、甘味料の制限を解除しています。
個体間の遺伝的差異の課題
人間の健康に関する最先端の研究分野の1つに、細菌叢(さいきんそう)や微生物叢(びせいぶつそう)があります。私たちの体内に棲んでいる何兆もの細菌や他の微生物たちです。
科学者は、微生物叢が私たちの健康に与える影響に疑いの余地はないと信じ、食事と環境が、これらの微生物の集団構成に影響を与えることも分かっています。
たとえば、微生物叢の糞(ふん)便の移植は、治療が困難だとされる感染症との闘いに応用されています。
しかし、これらの小さな生き物に打撃を与える可能性のある抗生物質や化学療法のラウンドの後、ふん便微生物移植がどのように健康な微生物叢を回復するのに役立つかについてはまだ解明中です。
2018年に発表された研究では、化学療法、または、抗生物質で治療されたマウスにふん便微生物移植を行った結果、微生物叢の回復に役立つことが示されました。
この結果は興味深いものですが、マウス系統間の遺伝的差異が微生物組成に大きな影響を与える点ではまだ課題が残されています。
一方で、人間においては、環境が遺伝子よりもはるかに大きな役割を果たすと信じられています。
したがって、マウスで行われた微生物叢実験の結果を、人間の健康に直接適用することは難しそうです。
ただし、この問題に関しては、いくつか進展もあります。
たとえば、米国国立衛生研究所の研究者らは、有用な実験遺伝子を保持しながら、野生の微生物特性をもちあわせたワイルドマウスの開発に成功しました。
これによって、野生のマウスと人間における免疫応答と微生物叢には、実生活での微生物との接触を通した形成方法が同じ可能性が高いと考えられています。
最後に
マウスは人間ではありませんが、世話が簡単で遺伝的にも操作しやすいため、実験室の被験者として人間よりもはるかに有力視されています。
また、高い繁殖能力をもつマウスなら、何世代にもわたる遺伝的要素や薬物の影響などをを確認することもできます。
実際に、過去には、マウスで行われた健康分野の研究が、人間の命を救った例もあります。
ここで紹介したように、マウスの研究で行われた結果が、すぐに人間に適用されることは期待しない方がよさそうですが、健康のためにより良いものが登場するまで、良くも悪くも今はマウスに頼らざるを得ないのかもしれません。