ベネチアを泥だらけの湿地帯から大都市へと発展させたエンジニアリングの驚くべき物語

建築・構造・ものの仕組み

ここでは、フン族から逃れてきたローマ市民の避難所だった質素な始まりから、中世に驚異的なエンジニアリングとして発展したベネチア(英語名:ベニス)の驚くべき物語を紹介します。

ベネチア人が、道路も土地も真水もない泥だらけの湿地帯を、いかにして繁栄する大都市へと変貌させたかをご覧ください。

安定した基礎を築き、象徴的な運河と橋を建設し、淡水と廃棄物管理のためのユニークなシステムを開発するために使用した独創的な技術を探ります。

ベネチアのはじまり

ベネチアの複雑なインフラをモデル化し、その永続的な成功の秘密を解き明かします。

452年、ローマ帝国は崩壊の危機に瀕し、フン族による北イタリアへの侵略がはじまり、いくつかの都市は完全に破壊され、人々は逃げ惑いました。

彼らのなかには海岸から海につらなる潟湖(ラグーナ)に向かい、いくつかの小島に避難していきます。

ここで、あらゆる困難にもかかわらず、小さな文明はやがて、世界がこれまでに見たこともないような、最も印象的な偉業を成し遂げることになるのです。

道路も土地も真水もなかったにもかかわらず、ベネチア人は泥沼を当時最も強力で裕福な都市に変えることに成功。

何百もの島々が織り成す運河と橋のユニークなレイアウトによって、ヴェネツィアは信じられないほどアクセスしやすくなり、あらゆるビジネスの中心地となったのです。

ベネチアが沼地から繁栄するための建築技術

その巧妙な設計と中世のエンジニアリングによって、どのように世界を征服することができたのか、水面下で何が起こっているのかを見るために、以下に全体のモデリングを見ていきましょう。

小さな湿地帯でできた島は、信じられないほど柔らかい粘土でできており、都市全体はおろか、人間の体重を支えるのもやっとでした。

まず、はじめにベネチア人が行ったことは、建物の安定した基礎を作るため、クロアチアの森から大きな木材を集め、地面に打ち込み始むことでした。

木材を打ち込んで土壌の強度を高める

それらは、より硬い粘土層に達するまで、約5メートルの深さまで打ち込まれます。

こうして杭を安定させただけでなく、杭同士を密着させることで周囲の粘土を圧縮し、水分を押し出して強度を高めたのです。

杭が地面にしっかりと打ち込まれると、上部が切り揃えられ、荷重を分散させるために木の板が上に敷かれます。

その後、イストリア石の特別なブロックを置き、土台を水面上に持ち上げたのです。

この設計は天才的で、木製の杭は空気から遮断され、腐敗することがなかったといいます。

今日に至るまで、オリジナルの杭はほとんどすべて素晴らしい状態で、街を支えています。

基礎の上に3階建て以下の建物を建設

基礎が適切に築かれると、建物そのものが建てられました。

ベネチア人は当初、家屋に木材を使っていましたが、度重なる火災の後、レンガ造りに切り替わっていきます。

ただし、建物をできるだけ軽量化するため、3階建て以下にしなければなりませんでした。

さらに、地盤が動くのでセメントは使えず、代わりに石灰モルタルを使わなければなりませんでした。柔軟性があり、地面がゆっくり動いても建物全体がたわむおかげで崩壊を避けることができるからです。

大きな窓とエレガントな石造りのデザインが施されたファサードの壁は、かなり重くなるため、転倒を防ぐために鉄の棒で床に固定され、建物全体が一体化されました。

この建築方法はベネチア人にとって効果的で、やがてラグーン周辺のいくつかの島がこの方法で建設されていきます。

島と島がつながっていく

最初は、島と島の間を渡るには船しかありませんでしたが、やがて島と島は建物の建設によって接近し、多くの島は馬に乗って浅瀬を歩くだけで渡れるようになりました。

ベネチアの次なるの進化は、まさに島と島をつなぐことでした。

驚くべきことに、ベネチアが誕生して最初の500年間は橋がありませんでしたが、人口が増え、ビジネスが盛んになるにつれて、ベネチアの金融の中心地であるリアルトへ簡単に行ける方法が必要になっていきます。

そこでヴェネチアの指導者は、最も優れた橋を設計した技師に褒美を与えることにします。

最初の橋が架かる

最初の試みは、ベネチアの2つの大きな区画をつなぎ、リアルト地区への迅速なアクセスを提供する重要な役割を果たすシンプルな橋でした。

その後、この橋は木製の橋に改良されましたが、やがて全焼して崩壊し、最終的にははるかに頑丈な石造りの橋に取って代わられます。

この橋を架けるために、12,000本以上の木材の杭が運河の土手に打ち込まれ、その上に10,000トンの石が積み上げられました。

今日に至るまでこの橋は残っており、ベネチア中心部の大動脈として機能しています

この後、あちこちに石橋が架かるようになり、ベネチアは道路の代わりに運河だけで構成されたコンパクトな都市となっていきます。

運河のおかげで、物資や交通が街の隅々まで素早く行き渡るようになったからです。

ベネチアは巨大都市へ

この頃には、ベネチアはヨーロッパで最も強力で裕福な都市になっていきます。売買されるものはすべてベネチアを経由し、ベネチア人は莫大な富を築いていくのです。

しかし、ビジネスが拡大するにつれて人口も増加し、真水の需要は制御不能に。

ベネチアは周囲を水に囲まれていたにもかかわらず、その水は塩辛く、飲用に適さなかったのです。

水不足解消のための技術

自然の湧き水や淡水を集める川がないベネチアは、本土から水を運ぶ船に頼っていましたが、17万人の人口を抱えるベネチアの技術者たちは、その需要があまりにも多くなったため、工夫を凝らす必要がありました。

ベネチアの島々は、当初は四角くつくられ、空いた土地は動物が草を食むための広場となっていましたが、この広場を利用して雨水を集めることを考えたのです。

まず、広場を深く掘り下げ、壁に粘土を厚く敷き詰めて防水性を高めます。

その後、砂と石で空間を埋め、表面をタイルで作り直し、広場の各四隅に向かって雨水が流れるようにしました。

ここから流れ込んだ雨水は、砂と石の層に徐々に濾過して広場の中心にあるメインの井戸に溢れ出ていきます。

水を最大限集めるため、近隣の建物の屋根には雨どいが取り付けられ、水を広場に集めて、排水溝へと導いたのです。

ベネチアは巨大な漏斗となり、街中の600以上の井戸を満たしました。

ベネチア人は再び、街を救うための傑作を作り上げたわけですが、まだひとつ大きな問題がありました。

廃棄物です。

廃棄物問題を解消するための技術

当時の人々は、ゴミをすべて窓から投げ捨てていたため、その一部は運河に落ちていました。

一方で、運河から遠い地域の人々の排泄物や腐った食べ物などはすべて道端に捨てられていたのです。

そこで16世紀、ベネチア人は地下トンネル網を建設し、すべての建物から廃棄物を集めて運河に流すようにしました。

ラグーンの潮が引いているときは、固形廃棄物は底に溜まり、液体は自然に運河に流れ込み、潮が満ちるとトンネルに水が溜まり、固形廃棄物を運河に引き込む仕組みです。

1日に2回、潮が満ち引きすることで、汚れた水が海からの新鮮な水と交換され、ベネチアのすべての廃棄物が洗い流されたわけです。

塩分濃度の濃い水は強力な消毒剤として働き、このシステムのおかげで街はきれいになりました。

驚くべきことに、ベネチアを作り上げたこれらの驚異的なエンジニアリングのほとんどすべてが今日も残っています。

橋、運河、建物はすべて、1000年以上にわたって街全体を支えてきた基盤の上に鎮座する古代の遺物なのです。

ベネチアの発展に関するモデリングは、以下の動画ですべて見ることができます。

The Crazy Engineering of Venice

「Venezia」は、ヴェネツィアやヴェネチア、ヴェニスなどさまざまな表記がされていますが、ここでは簡単にベネチアとさせていただきました。