ベルリンの壁の仕組み。壁はなぜつくられ、どのような効果があったのか

建築・構造・ものの仕組み

さて、東京という都市を2つに完全に分割しなければならないくなった場合を想像してみてください。

以前はつながっていた道路が行き止まりになり、都市の反対側にある職場にはアクセスできなくなり、毎日会っていた通りの向かいの隣人とはおそらく二度と話さなくなるでしょう。

ベルリンの壁はまさにそれを実現し、ほぼ30年間東西を隔てていました。

今回は、ベルリンの壁の仕組みや、なぜつくられ、どんな結果を生んだのかを壁の改良段階からアニメーション化した動画をもとに紹介します。

以下がベルリンの壁の仕組みであり、軌跡です。

ベルリンの壁ができる前の様子

壁が建設される前のベルリンでの生活は奇妙なもので、街中を自由に行き来する人々が、東ベルリン人か西ベルリン人のどちらかで呼ばれていました。

第二次世界大戦後、戦勝国はドイツの都市をいくつかの部分に分割しました。

ソ連占領地域は最終的に社会主義国家である東ドイツの領土となり、ベルリンの西側は法的に占領されたままでしたが、実質的には資本主義国家である西ドイツに属していました。

社会主義と資本主義の2つの異なる国、さらには2つの異なる通貨が道路でのみ隔てられていました。

市内のさまざまな場所を結ぶ列車は、終点を「次の駅は西の最終駅です」とアナウンスし、東ベルリンの住民は、通貨高の恩恵を受けるために西ベルリンで仕事を得たり、西ベルリンの住民は、通過がはるかに安い東ベルリンで安価に散髪をしてもらっていました。

ある意味では、両方のシステムがうまい具合にお互いの利益を享受していたといえます。

しかし、この二つのシステムの共存は長くは続きませんでした。

ベルリンの壁の誕生

1961年8月13日、ベルリンは分断されます。

東ドイツ政府は国境を閉鎖し、それぞれの家族が引き裂かれたのです。

公式には、これは国を守るために必要であると述べていたが、自国の市民が、機会、賃金、自由がより豊かな西側に逃げるのを阻止するための取り組みだったと考えられています。

当初、これは名ばかりの壁で、ほとんどがフェンスと、ばらばらの瓦礫で構成されていました。

警備員のいない区間もあり、飛び越えることも可能だったのです。

しかし、脱出を阻止するためにコンクリートで作られたより恒久的な壁の建設が始まります。

ただし、建築資材が不足していたり、西ベルリンと東ベルリンの国境に住宅街の建物があったため、最初の数年間は建設工事がなかなかすすみませんでした。

セキュリティーの改善がすすむ壁

家が壁の一部とならざるを得なかった家々は、東ドイツ当局によって住人が追い出され、窓はレンガでふさがれました。しかし、中にはふさぎ忘れの窓もありました。

1962年8月17日、東ドイツ政府に不満を抱いていたピーター フェルは窓のふさがれていない建物を発見し、壁の反対側に住む妹に会うために同僚のヘルムートと一緒に、西側への脱出を考えます。

2人が開いた窓から見た景色は、柵、次に空き地、そして最後に壁。

国境警備隊が近くにいることを除けば、脱出は実行可能に思えました。

ピーターとヘルムートは窓から飛び降り、最初の柵を登ります。

すると、すぐに2人の存在に気付いた警備員が発砲。

ヘルムートは、壁をよじ登りジャンプしますが、追随してジャンプしたピーターは倒れ込み、西側の壁の下で命を落としてしまいます。

ピーターの悲劇的な話は西側で広く報道されましたが、東ドイツ当局はこれを教訓に、壁の増築をはじめ、それから数十年にわたって壁のセキュリティ機能は強化されていきました。

1975年には、東ドイツ当局が、事実上誰も越えられない国境として知られる壁を建設し始めます。

ベルリンの壁の仕組みと効果

ベルリンの壁は、東から来ると、コンクリートで作られた視覚的な障壁だけが見えます。

しかし、この障壁のすぐ後ろの地面は、いわゆるスターリンの草で覆われています。

スターリンの草は、飛び越えようとする人の足を突き刺す鋼鉄の針で作られたマットです。

次は、コンクリートの支柱に張られたワイヤーで構成された信号フェンスです。

このフェンスをよじ登ろうとワイヤーに触れると、近くの監視塔の警備員届くアラームが鳴ります。

監視塔には、2人から5人の兵士が24時間365日配置されていました。

これらの兵士は国境全体をはっきりと見渡すことができ、脱走する人の命を奪うように命令されていました。

信号フェンスの後ろには、車両で通り抜けるのを防ぐ戦車トラップが数列あり、

壁の真ん中には、犬を連れて兵士が巡回する道、いわゆる死の帯がありました。

この帯は、監視塔から丸見えの、あらゆる方向に何マイルも続く土の道で、身を隠すことは不可能でした。

もし誰かが何とかここを通り抜けたとしても、最後には西側に面した壁が立ちはだかります。

この壁の上部には、金網の代わりに、アスベストコンクリート製のパイプが使われました。表面が滑らかで、よじ登るためにつかむものが何もありませんでした。

しかし、これが東ドイツ当局にとって予想外となったできごとにつながります。

壁がもたらしたもの

壁の滑らかさのために、壁は西側からの落書きの場となったのです。

ベルリンに置かれた45,000の要素の多くを占めることになる落書き。

この落書きはには、しばしば東ドイツ政府を嘲笑する芸術作品が描かれ、自由な芸術表現が可能だった西側と、それが不可能だった東側との厳しい違いを浮き彫りにしたオープンギャラリーのような存在になりました。

ピーター・フェルのような壁の犠牲者となった人物の正確な数には議論の余地があり、今日まで研究が続けられています。

長年にわたり、ピーター・フェルのように壁の向こう側でのより良い生活を求めて命の危機に晒された人はたくさんいました。

ベルリンの壁はドイツ分断のほんの一部に過ぎず、ベルリンに加えて国全体も2つの部分に分断したのです。

以下は、ベルリンの壁について分かりやすく紹介された動画です。

How the Berlin Wall Worked