ここでは、科学者がなぜ「クモの糸」にこだわり続けるのか、また、クモの糸の量産化が難しい理由について、特殊な糸の性質や価値を中心に科学的に分かりやすく紹介します。
研究が進むにつれて、クモの糸は、同じ太さの絹糸や軽量スチール(はがね)よりも強度があって伸び縮みし、紫外線に強いだけでなく、抗菌性や耐熱性、耐久性までも備えていることが分かってきました。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」には、ひときわ印象的なシーンがあります。
一人の盗賊が、極楽へとつづくクモの糸をよじ登っていくと、そのたった1本の細い糸に地獄の亡者たちがどんどんむらがりはじめる…
幼い頃この話を始めて読んだときには、今にも切れそうなはずの糸の強靱さに、ハラハラしながらも感心した覚えがあります。
実際に、クモの網は、大きな虫がひっかかってもその衝撃をしなやかに吸収して壊れにくくなっています。
オーストラリアでは、網で鳥を捕まえて食べるクモも撮影されています。
クモがぶらさがるための命綱「牽引糸」に関しては、太さが数ミリあれば大人がぶらさがっても大丈夫なくらい強靭なのです。
つまり、医療や航空分野、防弾チョッキなどあらゆる産業的価値を秘めているのです。
そのため科学者たちは、何十年もの間、クモの後ろから出るあの柔らかくて切れにくい糸を大量生産しようと試みてきましたが、残念ながらいまだに実現する方法は見いだせていないようです。
さっそく以下にクモの糸の仕組みをみてみましょう。
クモの糸の優れた性能
私たちは、約5000年も前から、衣料品や織物を作るためにカイコの絹糸を使ってきました。
おそらく「節足動物の分泌物(タンパク質からなる繊維)を収穫して活用する」という考えにあまり違和感がないのは、人間がすでにそれをはるか昔から行っているからでしょう。
実のところ、カイコの幼虫は群れで育てられるので、飼育はそれほど難しくはありません。
しかもカイコからは、たくさんの絹糸が生産できます。カイコの繭は全体が1本の糸からなり、一匹の幼虫が、繭になるためにつくる糸は1000メートルともいわれています。
さて、そのカイコの絹糸よりも強くて伸縮性があり、理論的に考えてもはるかに用途が広いことで知られている糸が「クモの糸」です。
研究によって、クモがぶらさがるために使う「牽引糸」は、同じ太さのナイロンやスチール(はがね)と比較しても軽くて強度が高く、熱や水にも強いことが分かっています。
そのため、クモがもしカイコのように大量飼育できるとしたら、橋のケーブルや防弾チョッキ、飛行機技術、生物分解可能なボトルなどあらゆる用途に応用できることになります。
クモの糸はまた、その抗菌性により、医療用途としても研究開発が進められています。
研究者らは、傷の手当てをはじめ、骨折した骨の修復、さらには、損傷した神経の再生のためにそれを使う方法の開発に取り組んでいるのです。
バイオ医療における期待の新素材
オーストリアのウィーン総合病院のChristine Radtke氏によれば、非常に強力で弾力性があるタンザニア産のクモ(Golden Orb Weaver)の糸を使用した動物実験において、長さ5cmを超える広範囲な神経損傷が拒絶反応なく自然に修復されました。
これまでの人工的な導管や糸では4cmの損傷が限界だといわれていたため、これは、バイオ医療における新素材として注目すべきことです。
クモの糸が水不足を救う?
2010年には、北京にある中国科学院(Chinese Academy of Sciences)と北京航空宇宙大学(Beijing University of Aeronautics)の研究チームによる、空中の水分を集める機能をもつクモの糸の構造が科学誌「Nature」で発表され、水不足への応用が現実化してきています。
なんと、クモの糸は、水をとらえた後、滑らかな糸を伝って網の上にいくつもつくられたこぶに集めて空中の水分をためる機能があるのです。
クモの大量飼育が難しい理由
クモの糸がそれほど価値があるのなら、クモを大量飼育すればいいような話ですが、それはカイコのように単純にはいかないようです。
まず、クモはそれぞれが網を張るために広いスペースを必要とするにも関わらず、一匹が出す糸は、カイコに比べてかなり少量なのです。加えて彼らは、つくり終えた網を食べてしまうこともあります。
縄張り意識が強いため、共食いをしてしまうのも、クモの大量飼育が現実化しない理由のひとつです。
残念ながら彼らは社会的な動物ではないため、クモの糸を大量に産生したいのなら、それにかわる人工的な糸を製造するしかなさそうです。
実のところ、人工的なクモの糸の作り方は簡単ではありませんが解明されてはきています。
クモの糸の作り方
クモの糸は、繊維状のタンパク質でできています。
クモは、おなかの中で、「スピドロイン」と名づけられているクモ糸特有のタンパク質を、「ドープ」と呼ばれるねばねばした紡糸液(化学反応によって繊維状に変える液体)に保存しています。
この糸のもとになるドープ液は、おなかの中の管を移動するにつれて、アミノ酸の鎖の配列を次々と形成していきます。
(補足:タンパク質の性質は、そのアミノ酸の配列によって決まり、その設計図が遺伝子だと考えられています)
そして、クモが、糸いぼ(糸を出す管)からこのドープ(タンパク質の液)を引くと、液体が乾燥して、網を張れるような繊維状になるのです。
ちなみに、クモは、網の輪郭用の強い糸、クモの移動用の道となる縦糸、獲物を捕らえるために粘液で覆われた横糸、獲物を巻き付ける極細糸、命綱用の糸というように、用途に応じて太さや性質の異なる糸を使い分けています。
人工的なクモ糸開発への試み
人工的なクモの糸をつくるには、このドープを複製する方法だけでなく、それをどうやって紡ぐかを考えなければなりません。
それにはいくつかの方法があります。
まず、クモから直接ドープを採取する方法です。
あるいは、ドープをつくるためにバクテリアやなんらかの有機体を利用する方法も考えられますが、どちらも問題があります。
いくら大きいクモを使っても採取できる量が少なすぎてあまりにも非効率的なうえ、たとえ他の生物がスピドロイン生産に成功したとしても、本物と同じくらい質のよいものであるとも限らず、おそらくは劣ってしまうでしょう。
人工的なクモ糸開発は成功しているのか?
実のところ、研究では遺伝子にコードされているタンパク質(スピドロイン)の情報やドープを糸に変える生物学的プロセスについてまだ十分な理解が得られているとはいえません。
現段階では残念ながら、クモの糸をつくる方法に近いものは再現できるかもしれませんが、それを正確に行うのは無理なのです。
しかし、現代の科学技術は、着実にクモの糸に近づいてはいます。
実際に、クモの糸の再現に成功したことを主張する会社も出ていますが、企業秘密が多く、技術的な知識の共有を好まないために、彼らの製品がどれほど本物に近いかを知るのは難しいようです。
遺伝子組み換えカイコの開発
これまでのところ、研究者は、クモの糸づくりの遺伝子をもつ蚕の生産には成功しましたが、一般的なカイコよりも質の良い糸はできても、クモのような糸を生産することはできてはいません。
乳用ヤギのミルクでタンパク質を生産(バイオテクノロジー)
2000年代はじめに、乳用ヤギを遺伝子操作し、円網の巣をかけるクモのタンパク質をミルクの中で生産することに成功した会社もありましたが、それを糸に紡ぐ技術を解明する前に倒産してしまい、他の科学者がその研究の一部を引き継いでいます。
酵母発酵プロセスで糸を生産
別の会社では、酵母発酵プロセスを利用して、クモの糸を作ろうとしましたが、それらの糸をウールかセルロースで安定させるには革新的な技術が必要だったうえ、できたのは50個から100個程度の考えられないほど高価なネクタイや帽子になってしまいました。
これらは、正確には大量生産とはいえず、この技術を防弾チョッキや橋のケーブルに応用する以前に、帽子の安定供給のために必要なクモの糸をつくるには、まだまだ克服すべき多くのハードルが残されています。
しかし、それを大量生産できる実用的な方法を見つけ出すことができれば、私たちの手には、絹糸に代わるとても素晴らしい物質が手に入るといえるでしょう。
参照元:
・Why Can’t We Make Spider Silk?
・Giant spider eating a bird caught on camera
・EMERGING TECH
・nature